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映画で、セリーヌのほうはどう変化したかというと。
すっかり大人の女性になって、何度か恋も経験し(不倫も示唆?)、
結婚はしていないけど、一応恋人もいる。
つまり、かつてジェシーの下ネタにたじろいでた少女はもういない
んですね。
そういう冗談も、自ら平気で言えちゃうくらいに。
それに、ジェシーに”赤”だとちゃかされているけど、環境問題等に
関する活動もしていて、対象に怒りも覚えてる。のをぶつけられて、
ジェシーが困惑しちゃう場面すらあったりして。
つまり、変化と成長が必ずしも素敵なままではないかも、という部分が
見えてくるんです。
それはジェシーも同じで、ちょっと老けたし――、実はもう結婚
しちゃってて、息子もいる。
観客としては、えーっ。がっかり……。という感じ。
(このふたりが純粋に付き合う可能性はなくなるから。)
ところが、妻とは幸せだ、とはいえない状況らしいんですね。
そしてセリーヌも、中身の純粋さは昔とは変わっていない、本質的な
輝きはそのまま彼女の中心にあるんだ、と思えるシーンがあります。
とても印象的だったのが、つき合うことが怖い、失ってしまうことが。
悲しくて立ち直れない、と話したときの事。
”多くの人は、さっさと過去を忘れるけれど、わたしはつきあったそのひと
その人がそれぞれ特別だから、代わりなんていない。だから埋めようもない。
”というような事を言うんです。
そして、子供の頃、遅刻ばかりしていた原因は、道端のころがる木の実とか、
そういうものをずっとみていたからだと母から聞かされたと話し、それと
同じに、その人のちょっとした仕草とかがすごく忘れられない、と言うんです。
この繊細さが、彼女の豊かさと魅力であり、それゆえに、幸にも不幸にも
なってしまうんだなと思うわけです。
どうでもいいようなことにすら美を見出して、深く愛すことができる一方で、
それゆえに深く傷つくから、あえて求めない臆病さがかいま見えたり。
でも、それがベースなのであれば、やはりジェシーのことも、同じくらい
忘れられない、かけがえのない存在として想っているだろうな、ということが
ふたりのいちファンとして、うれしい部分でもあります。
この繊細さはジェシーにもあって、書店でお客へのリップサービスとして、
「小さな自分の”娘”のうつむいた顔に、”あの女性”の面影をみてはっとなる」
というよう話をしたときのこととか、冗談めかしているけど、この本を書いたのは
君を探すためだ、とか……。まあここは、ちょっと夢をみすぎているけれど。
ケータイスマホのある現在ではありえない話だけど、ついこの間まで、
人々の出会いは、すべて手書きや約束や偶然や時に運命で、決まったんだな
と思ったり。
話がそれましたが、
ふたりはすっかり大人になって、お互いに「そこそこの」不幸でもある。
人生って複雑。
けれど、ふたりの再会は紛れもなく幸せなことで、大人らしく本当の
想いをちゃかしてごまかしながら、セリーヌはジェシーに手を伸ばしかけ
てやめ、ジェシーも去るはずの時間期限を伸ばし続ける――。
なんでしょうね、大人版初々しい高校生の恋、みたいな?
やきもきさせられる感じ?ああもう!って。
でも、決定的な答えが出るかどうかは、わたし(たち観客)にとっては
問題じゃないんです(笑)。
昔授業で、絵画だったか彫刻だったかで、男女がキスをする瞬間、
くちびるがふれあう一歩手前の構図のもの、が美しいという話が
あったことを思い出しました。(海外ではどうなのか、わかりませんけどね。)
ふれあってしまうと、直接的すぎるらしいんですね。手前、余韻の前の……
予感的な部分?が素敵だと思うらしいんです。
ふたりについても、そんな感じがするのはわたしだけでしょうか?
次回、最終回に続きます。
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