『自己責任』で思ったこと。

 3年前から中東で拘束されていたY氏が解放される、というニュースが報じられると、「自己責任」という言葉が再び大きく取り上げられましたよね。

 日本中が、批判でいっぱいの様相を呈していますが、外国では、あまりこういう世論にならないそうです。逆に、日本の反応に驚くとともに、「日本って冷たいんだねー」って言われたりするそうで。

 この反応の違いは、何なのかな?と思って調べてみました。

過剰な非難は日本特有!?わたしたちが知らない、世界のいくつかのこと

 

みんなでバッシング

 大体のことの起こりはこうだったはずです。

 アメリカの9・11後、中東情勢が悪化して、ISという名の過激なテログループも出現。日本人ジャーナリストのG氏らが拘束され殺害されてしまったり、旅行者が拘束の末解放されたりと、いずれも身代金や政治的条件を日本側に要求してくるという事態が、起こるようになりました。

 そんな中で、今回のY氏も拘束され、犯行グループによって撮影された「助けてくれ」という映像が何度か公開されましたが、解決にいたらず。その後どうなってしまったのか、生死もわからない月日が経っていたところに、突然の解放のニュースだったと思います。

 はじめは、え?マジで?とびっくり。3年も拘束なんて、長い!生きていられたんだなあ。しかも解放されるなんて、よかったと思いました。

 しかしその後、日本政府は身代金を払ってはいないが、交渉したカタールが肩代わりして支払われた可能性がある、とか。

 その金額は3億円とも言われ、同グループの資金となるだろう、これは、活動資金を与えたも同じ。それをもとにテロリストの武器の購入や新たな人々が殺されてしまう原因になる。

 さらには、危険な状態の国だから行かないようにと、国がいうのを振り切ってY氏が行った、しかも、拘束は数回目であるという話があったり。

 ということを知って、それはちょっと困るなーとか、それってどうなの?とも思いはじめました。

 それに付随して、家族がテレビに出ていたり(なんだか目立っていた感がある)、普通ありそうな国への感謝の態度がみられない?のはなぜか、みたいな話も飛び出してきて、結果的に「自己責任」騒ぎになって。

 それに対してテレビのマスコミたちは、ジャーナリズムというものは、国が止めたからやめるというものではないし、誰かが現地の情報を伝えることで、状況を知り、外から紛争を止めようと動いたりできる、大切な活動なのだという見解を示しています。

 また、「英雄」として迎えるべきだと発言した方もいて、それに対して反発がおこったり……といったところかと思います。

ちょっと冷静になってみよう

 さてこれらの批判、正直、世界共通のものなのではと思っていたので、冒頭の海外の反応を知ったときには、ちょっと驚きました。

 それで、まずは日本のみんな(?)が言っていることを分類して整理してみようと思いました。

□国際問題的なもの

 ・トルコと共にカタールが交渉してくれた結果、解放されたということで、日本は大きな借りができた。カタールをはじめ、中東は今、パワーバランスがごたごたとしている。

・海外にいる日本人の安全を脅かす、事例を作ったのではないか?

□日本国内のもの

 国としては建前上言えないが、なんらかの形でお金を払ったのでは、それは税金では、というもの。少なくとも、交渉のために動いた人物たちのコストも、国、つまりは税金だろう、という意見。

□ジャーナリストとして

・現地から情報を得て、無事に帰ってきて伝えるもの。しかし彼は、何度も拘束、解放されてきている。身の安全や、万一の保険などを含めた腕前を問う意見。

・現地の紛争をなくすための仕事なのに、身代金として資金を提供したのでは本末転倒ではないか?

・「自業自得と言っている人は、ルワンダ虐殺を勉強してみて。だれも来ないとどうなるか――」とダルビッシュ選手

・ジャーナリストは自営業のため、このことは自身の大きな宣伝&収入にもなるだろう。それは日本が肩代わりしていると考えるとどうなのかなあ?と、たけしさん。

□感情的なもの

 ・ジャーナリストとして、大きなニュースをもたらしてくれたことがあったのか?

 ・人として、日本の社会人として、どうも好感の持てない言動をしているように思える、という意見。

 ・テレビへの出方など、家族がどこかタレント風なため、共感しづらい(歌手らしい)。

□根拠のない憶測など

 ・元気そうにみえるのはなぜか、犯人と取引していたなどなにか裏があるのでは?など。

 ・本件とは関係ないと思う話。

 というようなところかと思います。

 とりあえずこの中から、感情論は分けて考えるべきだなと思いました。

 それは、ネットの性格上、人々の感情が先走って書き込んでいたり、あおられたり、不満の発散の場であったりすることもあると思うからです。

 発散である場合、ものすごく怒っていたとしても、一度言ってしまえば、それで気持ちが収まるということもある気がするんです。信念の発言ではないから、徐々に忘れていき、何か実のある話につながるわけでないだろうということです。

 よって、伝えられる本人の人となりや、憶測や、ご家族の話題は、本質ではないものとして置いておきます。

 次に、日本特有のバッシングだという話ですが、海外と日本ではなにかベースにしている考えが違うのではないか、それは「文化」なのか、あるいは、「なにか日本人が知らない認識」があるのではないかと思いました。ここは国際情勢やダルビッシュ選手の意見に関わるものと考えます。

「人に迷惑をかけてはいけない」日本文化

  まず、海外の反応と日本の反応が違うのが、文化によるものだとするならば、こんなことが考えられるのではないかと。

 日本では、「人に迷惑をかけてはいけません」と教わって育ちます。和を重んじること、それが、治安の良さや、災害時の秩序などにも発揮され、誠実であることがビジネスなどで海外でも信頼をかち得てきたんですよね。

 一方で、「同調圧力」や「出る釘は打たれる」という面もありますよね。その場に従わなかったり、才能のある人および差し出たことをする人は、面倒がられたり、憎まれたり、非難されるというような、一律のルール違反に厳しいという面です。

 今回の『自己責任』の多くは、「行くな」というルールを破ったほうが悪い、行かなければごたごたの中東の国で捕まることもなく、後々面倒なことになるかもしれない「貸し」をカタール作る事もなかったのに、遠く離れた日本の未来に迷惑をかけたぞ。ということ、

 さらに、誘拐すれば金になるからターゲットにしようと、海外にいる別の日本人の安全を脅かすことになる「迷惑」をかけたし、わたしたちの税金を使う(憶測)という「迷惑」をかけたぞ、どうしてくれる、ということに終結しているような気がします。

 正しい事は言っていると思います。共感もします。でも今って、

「遠い国だから関わらなければ関係なかったのに、で済む世界なのでしょうか?」

知識を入れてみる

 日本は、カタールの最初の「液化天然ガス輸出国」の一つだそうです。

 輸入総量の14%。原油も8%前後をカタールに頼っており、日本の輸入相手国トップ3に入る存在。すでにエネルギー面でなかなか深いおつきあいをしているのです。

 つまり、何語を喋っていて、宗教が何で、正確な国の位置を知らなかったとしても、わたしたちは、一部カタールのエネルギーを使って、毎日料理をしたり、車に乗ったり、お風呂をわかしたりという生活をしている、という事になります。

 だからこそ、交渉したり、お金を肩代わりしたり(とされる)という関係にもなれたということも、言えると思うのです。

 中東では今、カタールは周辺国から孤立しており、味方が欲しいという事情があるらしく、そのためのに日本に協力(肩代わり)したのではと言われています。「政治に使われた」と言われているのはこのことです。

 何を言いたいのかというと、このサイトの「新書を読んでみる」記事でもふれましたが、世界はグローバルに開かれてしまっているということなんです。

 ネットもある、経済的にも、もはや後退することはできない。鎖国さえしていれば安全という世界ではないのでは、ということです。

 そういった意味では、日本の常識が、世界でも通じるとは限らないわけです。

 日本では、「人に何かしてもらったら、お礼になにかお返しする」というのは当たり前で気持ちのほっこりすることですよね。

 でも、それが政治や国際関係で当たり前かと言われると、どうでしょうか。

 「しぶしぶでも貸しを返さなければならない状況」になるのか「貸しはあるがここでは返せない!」とするか、それはもう「外交力を問われるところ」という話に主役が変わるのではないでしょうか?

 どんな難しい状況であれ、決めるのは国の実力次第ということ。

 そして、外交をするには、きっと正確な情報も必要になるんですよね。。

ルワンダ、ジャーナリズム

 メジャーリーグで活躍するダルビッシュ選手がツイートした、ルワンダ大虐殺。ちょっと調べてみましたよ。

 ざっくり説明すると、アフリカ大陸の内陸国で、二つの種族が住むルワンダをベルギーが統治していました。

 その種族間で争いがおこり、ある時、国連に「大虐殺の計画がある、証拠もある」という知らせが舞い込みました(これは、有名な説だが偽造であるという話もある)。

 しかし、当時の安保理国は、それぞれソマリアやボスニアなどの争いの対応に追われており、迅速な具体的な行動を起こせませんでした。RPF対政府軍の戦いの中、ベルギー軍も、兵士10人を殺されたことで撤退してしまったのです。

 そして最悪なのが、「実際には10万人のツチ族が救出を待っていた」のに、RPFが「虐殺はほぼ終わった。今国連が介入しても役に立たない」との書簡を送ったこと。

 それにより救出が相当に遅れ、実に80万人もの大虐殺が、”世界中の誰にも知られぬままに”行われていたという、ほんの24年前の出来事です。

 現地の込み入った事情や、西洋との倫理観の違いから、もう少し複雑なのですが、ざっくりというとこのように「偽の情報による惨劇」、という恐ろしい事態があったということ。

 この時、もしも海外ジャーナリストが現地に行っていて、各国へ広く報じていたら。世の中がこの情報を知っていたら、こんな事態は防げていたんじゃないだろうか、

 危険な地域、危険な時期、多くの人は躊躇する場面でも赴いていって伝えるという仕事に意義を感じて、役目を果たしてくれるのがジャーナリストなのだ。だれかにとっての生命線にもなる役割を担っている、それを、ただの自己責任で片付けてしまうのか?ということのようです。

 ダルビッシュ選手のツイッターのほんの数日後に、たまたまでしょうけれど、バラエティ番組で現在の平和なルワンダの様子が放送されていたので、とても興味深く見ました。

 そんな恐ろしい事の起こった場所とは思えないほど、発展し、美しく平和な様子で、野生のマウンテンゴリラに至近距離で会えるようなツアーを催していたりして。現在はとても豊かな国に見えました。アフリカの奇跡と、呼ばれている国なんだそうです。

 内心はいろんな思いがあるでしょうに、人々の前向きな努力がこうした発展を実現させているようです。

 以上は、アナン国連事務総長がPKO担当だった時におきた出来事です。

 「ルワンダを見捨てた」などと間違った認識をされていたりするようなのですが、上記のように、実際は止めようとしていたものの追いつかなかった、というのが正しいところのようです。

 引退後も、彼はシリアやロヒンギャの解決に尽力。ノーベル平和賞受賞者。2018年8月に亡くなりました。彼なら、今の日本をなんと言うのでしょうか。

海外の判断基準とは

 それでは、海外の反応を集めてみます。

○アメリカ国務長官「イラクの人のために危険を冒して現地入りする市民がいることを誇りに思うべき」

○ル・モンド誌「死刑制度や難民認定など、国際社会で決して良くない日本のイメージを高めたことを誇るべきなのに――逆にこきおろしている」

 うーんと、アメリカさんに対しては、一端のあなた方がそれ言いますかね……という気もしてしまいますが、ル・モンド誌に関しては、そうか、日本ってそこはマイナスに思われていたんだっけ、と気づかされます。

○2012年のニジェールで、フランス人4人が解放(拉致されたのは三年間)されたときは、オランド大統領が空港に出迎え、「限りない喜びだ。3年の我慢と苦闘をねぎらいたい。彼らは偉大だ」とのべている。政府は認めていませんが、その時の身代金は27~36億円とも言われています(!)。

 とはいえ、フランスのサルコジ大統領など保守系の政治家は、拘束された二人のジャーナリストを無謀だと非難したこともあるそうです。でも、世論がその姿勢に反発。

 市民が署名活動やコンサートを開くなどして政府に対応を求めたことで、結果2人は解放されるに至りました。国民側の反応が日本と全く違っていますね。

 アメリカでは、原因が何にせよ、「人質になった本人」は誰かを傷つけたり、犯罪を犯したわけではない。テロリストによってその状況になってしまったのだ。ということで、人質側に同情し、無事に帰ってくることを祈るべきと考えるのだそうです。

 ふむ。筋が通っているように思える……。

 イギリスBBCでも同じで、日本には同情心がなく、自己責任を主張する人が大勢いたことを、驚くべきこととして報じているそうです。

 こういった個人主義の国では、ビジネスや議論の場ではものすごい競争をする一方で、困っている人や不可抗力に苦しむ人には、普通に助けたり同情するという面があるとか。しかも、地縁とか同郷といった繋がりがなくても、なんだそう。

 そういえば、海外ではホームレスと気軽におしゃべりする風景があると、日本では考えられないような場面が普通にある話を読んだ事があります。おせっかいしたくなるというか、心配になっちゃうんだそうです。優しいですね。

 キリスト教の精神や国の成り立ちによるものであるかもしれないけれど、社会とはこうあるべきという考えかた、論理的、合理性、倫理的な感覚によるものだろうということです。

(そうか、だから養子縁組とかベビーシッターなども、ごく当たり前に利用されている理由なのかもしれませんね。「合理的に」と考えられるなら、子供が欲しい時「血がつながっているかはまた別問題」となるし、ベビーシッターも、「今、人手が欲しくて、そこにバイトしたい人がいるから、お互いにハッピー」みたいな感じで。抵抗感とか罪悪感とかを感じてしまう、血に重きを置きがちな日本とは、違う感覚なんだろうなあ。)

 「社会とはこうあるべきだよ」って考え方は、ちょっといいなと思いました。

 それって、うまく作用すればだけれども、人に対して優しい社会を理想とするとき、それを実現するのは当たり前のこと、みたいな、合理的な考え方ですよね。人間を大事にしてる。こうだったらいいな、が実現されやすい社会って、希望が持てる気がします。

 このような海外のスタンダードを知った上で考えると、日本のT氏の「英雄として迎えるべき発言」は、「海外寄りの」ある意味真っ当な意見とも、言えてくるのかも……と思ったりします。

未来を見据えて

 村社会の日本が、どこまでその価値観を受け入れられるのかはわかりません。

 それに、いくら海外では同情がスタンダードとはいえ、身代金が資金源になったり、救出時に別の死傷者が出たりすることは大問題なのもたしかですよね。

 そうなると、あとは今後、どうしたら防げるかということを考えるほうが建設的だと思うのですが。

 だって、拘束というもう起こってしまったことについて、個人を国中でバッシングすれば時間が巻き戻り、なかったことにできるんでしょうか?

 トラブルメーカーに思える人さえ排除すれば、日本だけは安全なままでいられる世界なのでしょうか?

 そんな魔法はないし、インターネット経由で脅される事すらあったのだから、もうそういう時代ではないと思うのですが。

 そしてわたしたちは、これから「どんな日本人」でいたいのかなと。

 事実3年もの間、海外で拘束され、恐怖を味わってきたであろう人が、やっと帰ってきて安心できるという時に、さらにみんなで取り囲んで言動で痛めつけるような、日本人て根っからそういうことする人たちだったっけ?とも思うんです。古くは、義理人情とか、弱きを助くっていう話が好きだったりする国民性が、あったと思うんだけどなって。

 日本人は、なんでもまっさらな状態であることを好みます。きれいで理想的な状態であることは好ましいことです。それゆえ、ひとたび問題が起こった時は、問題があることそのものが問題だと感じ、改善するほうには目を向けません。

 商品に問題があっても企業が隠したり、いじめがあっても学校が隠蔽したりする事に尽力し、「わたしたちはまっさらだ」と嘘をつくのです。世間を恐れて。いずれ発覚し非難を浴び、本来大切にすべきものをないがしろにしているにもかかわらず。

 問題からどう正常に、もしくはよりよくできたかということと、改善したことは周りが評価する姿勢のほうが大切なのではないでしょうか。

 一度間違えたらもう終わり、だから失敗したのなら自己責任、になるような気がします。本来は、「他人のせいにはしません」くらいの意味合いでしかないと思うのです。

 清廉潔白はひとつの理想形ではありますが、世の中はそううまくいきません。だからこそ、そうできなかった時に、いかにして再生したか、そうなれる力を持てたか。それを経験して結果を出すことができたなら、同じくらい、もしくはそれ以上の価値――成長と寛容と未来性がある、有益な事だとは感じないでしょうか?

みんながやるべきことって

 現実的にできることなのかはよくわかりませんが、ジャーナリストが加盟する、人質保険のようなものを作ったらどうかという案がありますね。

 これを義務づけることで、身代金と、国の政治との関係を遠ざけることはできるかもしれません。それでも、資金源となってしまう問題は、クリアできないのですが……。

 あとは、どうして捕まってしまったのかをしっかり検証して、なにが、どこがいけなかったのかを今後に生かさなくてはならないと思うし。

 それこそ、ジャーナリスト間で失敗を共有できれば、安全確保のレベルを上げたり、後に続く人にも最低限の知恵として伝えられるのではないかと。フリーのジャーナリストであればあるほど。でも、独自の取材ルートを開拓するのでしょうから、難しいのかなあ。

 また、どう見ても「ただの無謀」としか思えなかったり、あまりにも自己防衛に怠慢だった場合どうするのか?もしかしたら罰金なり、抑制なりも必要なパターンもあるのかもしれません。

 帰ってくるのが当たり前の資質として、助けるのはぎりぎり一度だけ。二度目は本当にないよ、資金源を断つ目的でね、だからよく考えろ……。とかなのか……?

 わかりませんが、なにかしら未来のために出来る事をみんなで考えるほうが、ずっとよい気がします。

 いずれにせよ、捕らえたハッカーをホワイトハッカーとして採用するアメリカみたいに、(という例が正しいかどうかわかりませんが、)このことで政府が得た情報や、うまれたであろう国家間の人脈やらなにやらを、万一の時は逆手にとってよいことに利用してやるぜ、くらいの気概が日本にあってもいいのでは、

 そして、ソクラテスのように、「自分は無知であるという自覚」のスタート地点に立つことも、よりよい社会を作っていくために必要なのでは、とか思ったりしたのでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました